もう一つの奇跡
これは9人の少女達の輝きの裏で、絶望に苛まれながらも運命に抗い奇跡を起こした男の物語である。
6月9日早朝、私は物販に参加するため埼玉はメットライフドームの地に降り立った。
今日、この地でAqoursが3rd liveを行う。
期待を胸に秘めながら物販の列に並んだ。
既に長蛇の列ができていたが列は流れている。遅くとも11時には事を済ませられるだろうと思い、私はイヤホンを耳に小説を開き暇をつぶしていた。
列に並びちょうど1時間が経とうとした時、異変が起こった。
私の内臓が音を立てて躍動し始めたのだ。
それは始め音もなく近づいてくる。ほんのわずかの間に五月雨は激流となり、突然宅急便の配達のようにけたたましくノックを始める。
それが全ての始まりだった。
短くとも19年間、常に寄り添い苦楽を共に過ごしてきた仲である。この異変に気付かないはずもない。これは耐えられる痛みなのかそれとも耐えられない痛みなのか、それは瞬時に判断できた。
素早くバッグに手を伸ばし私は茶色の小瓶に入った丸薬を手にした。かの日本帝国が露の地を攻める時に使用した丸薬である。
今まで幾度となく私の窮地を救ってくれたこいつに頼るしかない。私は数粒を口に含みポカリスエットで流し込んだ。後はこいつが効くまでの10分程度耐えきればいい。
そして私は再び小説を開き気を紛らわせた。
『これでまるの物語はおしまい』
全てが上手くいく。そんな風に思っていた私の願望は音を立てて崩れ去った。
『何で!どうして効かないの!』
私の必死の訴えに答えることなく激流は更に激しさを増していった。しかし、力には力を持って制するしかない。私は必死に自身のshadow gateを閉じることだけに意識を集中させた。
集中力が外界を遮断する。
一生の様に長い時間戦い続けふと見上げると、あと一列で物販が買える位置まで進んでいた。緊張が解れた為か、先ほどの激流は深緑を流れる小川のように落ち着いていた。
何事も無かったかの様に物販を済ませ、万が一の為に私はトイレに向かっていった。そして向かっている途中、ふとAqoursラムネの販売が目に入った。腹の具合は良い。折角だ、一本頂いて行こう。私は豪快に炭酸を流し込んだ。
今日は真夏日らしい。どおりで旨いわけだ。
私は額の汗を拭った。ラムネのガラス越しに見る太陽は何故、これほど美しく心を締め付けるのだろう。
そんな意味もないことを考えている私に再び影が迫った。
『やつだ』
やつは私の身体に加速せよ、加速せよと命じる。膨張する速度は静止に近い。だが按ずることは無い、目の前に道はある。私は駅前のトイレに向かった。
これで全てが終わる。そう思った時、視界に入ってきたのは絶望の二文字だった。
個室が空くのをを待っている5人の人影が見える。全員、己の運命と戦った戦士であろう顔つきだった。10分も待てば大丈夫だろう。そんな甘い考えを持った私を神は許してくれなかった。
先ほどとは比べ物にならないほどの怒号。逆鱗を触れられた龍の様に私の身体は暴れた。これは10分と持たないことは確実だった。
駅の構内にもトイレがあったはず。ピンチの時ほど頭は冷静に働くものである。決壊しないように細心の注意を払いながら私は改札を抜け、駅のトイレに向かった。
外からは人影は見えない。キセキは起こったんだ。足掻いて足掻いて足掻きまくった道の先にキセキはある。そう千歌たちは教えてくれた。
青い羽が導くほうへ私は向かった。
しかしそう簡単に奇跡が起きるわけがなかった。
個室を待つ二人の影。極限の絶望。私の明日への扉は今にも開きそうだった。人としての尊厳を失うくらいなら恥をかいたほうがましだ。極限まで追い詰められた人間は理性が崩壊する。
私は人生で犯したことのない罪を犯した。
女性トイレに足を踏み入れた。
入口で出くわした初老の女性に個室は空いているかどうか尋ねた。彼女は入っても良いかという私の問いに心良く良いと答えてくれた。
でもこっちにしなさい、彼女が指さしたのは赤子と入る用の多目的トイレだった。
入れればなんでも良い。私は駆け込んだ。
急いでズボンを下ろそうとする私の目には疑いたくなるものが写っていた。
床にはあと一歩で奇跡に届かなかった者たちの夢が散乱していた。
倒れていった者達の願いと、後から続く者の希望
二つの思いが重なりあう二重螺旋。
それこそがラブライブ。
『じゃあやめる?』
『やめない!!』
夢を壊さぬよう進んでいった先に更なる試練が待ち構えていた。夢の跡が便器にも表れていた。だがやるしかない。
夢の跡に降れぬよう色の白い場所に足を置き、私は全てを解放した。
今度こそ終わったんだ。
夢を拭き取ろうとした時、あることに私は気づいた。
紙が無い
神は私にどれ程試練を与えるのだろう。
見渡しても見渡してもあるのは夢の欠片ばかり。紙を求めようにもここは女性トイレだ、それは出来ない。だが、私は一つの案を思いついた。
『女声を出して紙を貰おう』
今思えば、最悪解なのだがその時の私の精神状態では冷静な判断など出来るはずもなく迷わず決行した。
『ガチャッ』個室の扉を開ける音が鳴り響いた。 今だ!
『トイレットペーパーください!(CV伊波杏樹)』
数秒の沈黙の後、下の隙間からトイレットペーパーが転がってきた。
神はこの世に存在したのだ。
テンションの上がりきった私は犯してはいけない間違いを犯した。
『ありがとうございます!!(地声)』
それからのことは良く覚えていない。
夢を拭き取った後、人がいないタイミングを計り私は外に出た。
騒がしいはずなのに不思議と音を感じなかった。 自分の観る世界全てが色鮮やかに見えた。
そういえば待ち合わせは所沢の駅だったな。
そう思い出し電車に乗った。
買ったグッズを見せ合う人たち。お昼ごはんを何にするか決めあっている人たち。
全員に笑顔が溢れていた。
そんな綺麗な世界を見るのが怖くなり私はまたイヤホンを耳に小説を手にした。
ウォークマンから流れてきた曲は『起こそうキセキを』
私の目からは涙がこぼれた。